ホットラテの猫

猫の絵

朝、駅前にあるスターバックスでホットラテを飲むことが習慣になりつつある。目を覚ましたい時はコーヒーだけど落ち着きたい時はホットラテを。そして時間に余裕があれば本を読む。いつものように熱めのホットラテを注文して、あの「黄色いランプ」の下でホットラテを待つ。いつも通りの朝8時55分。「熱いのでお気をつけください」そう出されたホットラテのカップをよく見ると、何故か今日は、可愛らしいネコの絵が描かれていた。いつもは描かれていない。隠語のようなものか、いや、そんなことはどうでもよくって、可愛いから朝から気分が良いぞ、ってこと。ごくっと。ほっ。

しばらく猫の絵を考えていて「もしかして」と思ったのだが、この猫の絵は、もしかしたらエキストラ(熱め)を意味するのでは?熱めに作ったホットラテ、火傷に注意、猫舌、猫、、だからなのだろうか笑!?

中平卓馬と無駄について

日曜日、卓馬さんに会いに行く。夏が始まる前に会って以来か。久しぶりに会った卓馬さんは心なしか元気が無いように見えて心配になるのだが、鎌倉のバレンシアで早めの夕食をとる頃にはいつもの元気があったように感じる。夜の散歩にも付き合うのだが今日は初めてのコース。小高い丘に登り横浜の夜景を眺望する。道の途中、100円の自販機で温かいミルクティーを。「100円で温かいね」と卓馬さんは微笑む。次は煙草の自販機の前で立ち止まり「ぼくの息子はフィリップモリスを吸うんだよね」とボタンを指差す。仕方なく吸いたくもないフィリップモリスを買ってみる。1mgのフィリップモリスは吸った気にはならないが妙な気持ちにはなった。そこにはいつも通りの後姿と横顔があって少しほっとしてしまう。卓馬さんは、いつ会っても不思議な気持ちにさせる、そして帰り道の早渕川は感傷的な気持ちにさせる。

そして無駄について。

先日、友達から聞いた話なのだが野矢茂樹が「無駄を認めたい」そうテレビで発言していたらしい。ここで彼が認めたいと言った無駄とは、最初から最後まで全く役に立たない、そんな無駄。そんな無駄を認めていきたいと。無駄は大切だと言ってしまうと無駄は無駄ではなくなり、スルリと手の内から逃げていく。そんな無駄を捕まえたいということなのだろうか。

無駄ってなんだろうか。しばらく考えてはみたのだけれど、結局のところ分からない。考えれば考える程、無駄なものが消えていってしまうのだ。自分という世界に入り込み認識されてしまうと何かしらの意味を帯びてしまうし、もうその時点で無駄とは言い切れなくなる。無駄とは私という世界の外側にあるのか。世界を拡張するれば、その分だけ遠ざかっていく。遠ざかっていく無駄を停止させる術があるとすれば、無駄について考えることを止めることなのか。

ここで中平卓馬の写真と繋がるのだが。

中平卓馬の写真は無駄を削ぎ落した、極めて客観性を持った写真と考えていた。でも、もしかしたら、中平卓馬の写真にあるものは前述した捕まえ切れない「無駄がある」と言えるのかもしれない。私という世界の外側に位置する無駄。それが客観性なのか。

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

他人じゃないような気がするけど他人です

他人じゃないようで

帰りの電車で片目をつぶって考えたこと。気味の悪いウインクと勘違いされそうで怖いのだが、片目をつぶることによって思考の質が上がるらしい。どこまでが自分なのかという問いを絵で考えてみると、絵具を含んだ筆がキャンバスに触れている瞬間、その瞬間の触れている一点までが自分なのではないかと考える。しかし筆がキャンバスを離れた瞬間にその一点は既に自分ではなくなり他人となり、キャンバスに残された絵具は「自分であった」という痕跡でしかない。その連続の結果に生まれるは見たことあるような他人なのかも。この感覚をメモっておくぜ。

朝霧Jam'07

朝霧Jam’07

今年も朝霧Jamに友達と行ってきました。通算3回目。風邪を引いたまま行ったのだけど、やはり体調がピリっとせず終始セーブ気味で過ごす朝霧Jamに。今年は朝霧Jamに行くことにはなぜか抵抗感があった。理由の1つにチケットの争奪戦やヤフオクでの価格高騰などにゲンナリしてしまったこと。もう1つ、「行ったら楽しい」そう分かっていることをするということに抵抗を感じてしまうのだ。分かっているだなんておこがましいのは承知だが。気の合う仲間と朝霧Jamに行く。もうこれは楽しいに決まっている。ただの天邪鬼かも知れないけど抵抗したくなってしまう。やはり行ったことのない未知数の現場に惹かれる。しかしオーバーナイトした月曜日の朝霧高原には霧が立ち込み見たことのない幻想的な風景があった。うーむ、やはりおこがましい考えであったか。行かなければ分からない。

静かということは

長者ヶ崎

先週の日曜日、友達とカメラを持って逗子/葉山へ出掛ける。逗子駅からゆっくりと歩いて葉山の長者ヶ崎へ。道中での出来事、海の見えるデニーズで昼からビールを飲んだり、結婚式を挙げたばかりの二人とその家族が砂浜にいたり、海で泳いだのかズブ濡れの小学生がいたり。あとは町並みだとか。なんだか時間が静かに動いていくのを感じた。不思議だぜ。最後に寄った長者ヶ崎の土産屋さんで一服したのだけど、ここがまた不思議で。とても静かなんだ。空調の音が何処かで響いている。店のおじいさんが靴を摩って歩く。友達が窓を開ける。ところてんを啜る。風で窓がカタカタと震えていたような気もしなくもない。確実に少数の音は存在していたのだけれど。静かということは、音が存在しないというよりは、心が静まる音が存在している、そんなことをいうのかも。また行きたい。次に行った時は牛丼を食べよう。

渡り鳥には見えている

いつだったか、茂木健一郎のブログに渡り鳥について書かれていかことがあった。とてもいい話しだったからそのうちここに書こう、そう思っていたらもう春になっていた。

以下、クオリア日記より渡り鳥の部分を引用させていただくと。

連休中の夜、コンビニから帰ってくる時に、ふと「渡り鳥はずいぶん長く飛び続けるから、そのうちに夜になったりするだろうな」と思った。「鳥目」というくらいだから、暗闇で遠くが見渡せるとは思えない。だとすると、渡り鳥は、何も見えない漆黒の闇の中を、ただひらすら飛び続けるのだなと思った。

茂木健一郎 クオリア日記
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/01/post_dd66.html


しばらくの間、渡り鳥のことが頭から離れなくて、朝の電車だったり、夜の帰り道を歩きながら渡り鳥のことを考えていた。ある日の夜、家の外で煙草を吸いながら再び渡り鳥のことを考える。うーん、暗闇かあ、ある瞬間フッと思いつく。瞼を閉じたら暗闇じゃないか、って。そこで実際に瞼を閉じてみたのだけど、予想通り何も見えない、これは暗闇に近いぞ!

そんなバカなことを数分続けていたら、さらにバカなことに「ああ、暗闇なのだけど、何か見えるな、何か感じるな」そんな思いが湧いてきた、この時まだ瞼を閉じた状態である(単純に眼球が瞼の裏を認識しているだけなのかもしれないが、それは置いておこう)

ちょっとバカな話ではあるけど、その時は、これは大切なことだ!大きな発見だぞ!きっと渡り鳥も得体の知れない何かが見える方向に飛んでいるに違いない!そう興奮気味に思ったのです。こういうことは一応アウトプットしておかないとね。