中平卓馬と無駄について

日曜日、卓馬さんに会いに行く。夏が始まる前に会って以来か。久しぶりに会った卓馬さんは心なしか元気が無いように見えて心配になるのだが、鎌倉のバレンシアで早めの夕食をとる頃にはいつもの元気があったように感じる。夜の散歩にも付き合うのだが今日は初めてのコース。小高い丘に登り横浜の夜景を眺望する。道の途中、100円の自販機で温かいミルクティーを。「100円で温かいね」と卓馬さんは微笑む。次は煙草の自販機の前で立ち止まり「ぼくの息子はフィリップモリスを吸うんだよね」とボタンを指差す。仕方なく吸いたくもないフィリップモリスを買ってみる。1mgのフィリップモリスは吸った気にはならないが妙な気持ちにはなった。そこにはいつも通りの後姿と横顔があって少しほっとしてしまう。卓馬さんは、いつ会っても不思議な気持ちにさせる、そして帰り道の早渕川は感傷的な気持ちにさせる。

そして無駄について。

先日、友達から聞いた話なのだが野矢茂樹が「無駄を認めたい」そうテレビで発言していたらしい。ここで彼が認めたいと言った無駄とは、最初から最後まで全く役に立たない、そんな無駄。そんな無駄を認めていきたいと。無駄は大切だと言ってしまうと無駄は無駄ではなくなり、スルリと手の内から逃げていく。そんな無駄を捕まえたいということなのだろうか。

無駄ってなんだろうか。しばらく考えてはみたのだけれど、結局のところ分からない。考えれば考える程、無駄なものが消えていってしまうのだ。自分という世界に入り込み認識されてしまうと何かしらの意味を帯びてしまうし、もうその時点で無駄とは言い切れなくなる。無駄とは私という世界の外側にあるのか。世界を拡張するれば、その分だけ遠ざかっていく。遠ざかっていく無駄を停止させる術があるとすれば、無駄について考えることを止めることなのか。

ここで中平卓馬の写真と繋がるのだが。

中平卓馬の写真は無駄を削ぎ落した、極めて客観性を持った写真と考えていた。でも、もしかしたら、中平卓馬の写真にあるものは前述した捕まえ切れない「無駄がある」と言えるのかもしれない。私という世界の外側に位置する無駄。それが客観性なのか。

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

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