廣瀬純講演会「物語=殺人、音=映像、資本=労働:哲学と映画との認識論的同時性」+映画「かつて、ノルマンディーで」

「わたしの人生は下手くそにモンタージュされ、下手くそに演じられ、うまくかみ合っていない吹き替え映画のようなものです。」これはマルグリット・デュラスの言葉だ。ピエール・リヴィエールもまたミシェル・フーコーに同じことを語り得たのではないだろうか。フーコーがリヴィエールに見出した「物語=殺人の装置」も一本の「吹き替え映画」をなしているのではないだろうか。ジル・ドゥルーズとフェリックス・グァタリが次のように書くとき、そこで問題となっているのもまた、下手くそにモンタージュされ、うまくかみ合っていないもうひとつの吹き替え装置あるいは二重化された装置なのではないだろうか。「マルクスが示すのはふたつの『主要な』要素が出会うということです。ひとつは脱領土化された労働者であり、彼は自由で何ももたない労働者となり、自分の労働力を売らなければならない。もうひとつは脱コード化されたカネであり、これは資本となり、労働者の労働力を買う能力をもっている。」(廣瀬純

メモ。ニコラ・フィリべール「かつて、ノルマンディーで」の上映もあるようです。無料。
http://www.ifjtokyo.or.jp/agenda/evenement.php?evt_id=903